それでも、忘れられないあなたに《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:城裕介(プロフェッショナルゼミ)
彼女との間で事件が起きた。それまで喧嘩をすることはあっても、大きなトラブルも別れ話もなかった僕にとっては晴天の霹靂だった。それは僕が考えていたよりもずっと激しい雷雨を僕にもたらした。
彼女は会社の後輩で入社当初から明るいはにかんだ笑顔が印象的で、ハキハキとした喋り方の女の子だった。周りは仕事にがつがつした人間が多く、僕のようながつがつしていない人間は珍しかったのはあるかもしれない。
その会社にはメンター制度という制度があり、月に1度食事代を援助してくれる制度があった。でも男女でそういうことをあてがわれることはあまりないんだけれど、彼女の所属した部署では不幸なことに女性の営業担当がいなかった。だからなのか一番年が近く、害のなさそうな僕に白羽の矢が当たったようだ。また管轄するエリアが違うため、客観的に見やすいということもあったかもしれない。
彼女はそんなはきはきとして接しやすい反面、一人で突っ走りやすく、思い込みで失敗することもあり、怒られることが多かった。なのに、自分では本音を伝えるのが苦手らしく、上司とどう接したらいいのかわからない様子だった。だから僕は彼女にアドバイスするというよりはとにかく、自分の気持ちを整理させることに注力した。
そうやって彼女と一緒にいるうちに徐々にメンターとしてではない食事が増え、彼女から積極的なアプローチを受けなし崩し的に付き合うことになった。そうやって自分からグイグイとくる子は今までいなかったしその積極性にいつの間にか僕も惹かれていった。
そうして1年が経ったときのことだ。
「あのね、あの日がこないの」
そう彼女からラインが届いたのは、最後にあって1週間経ったときだ。僕は1週間前に異動となり遠く離れた大阪に勤務していた。彼女は名古屋にいたから遠距離になる。近くにいる間では最後になるデートだったから別れを惜しんだし、お互いにいつもより激しかった。お互いそのタイミングが近いということは彼女から聞いていた気がする。そういうことがないように彼女も僕も気を付けていたし、そんなことはないはずだと思っていたから。このとき僕はこのことを楽観視していた。
今までそんなことをわざわざ言ってきたことがなかったから不思議だと思ったけれど、あまり気にしなかった。言いづらいことをわざわざ送ってきた、彼女の不安を拾うことができなかった。
だんだん彼女のラインの様子がだんだん変わってきた。
「今日も来なかった。不安だよ」
「あなたがちゃんと避妊しなかったんでしょう。どうしてくれるの」
来ない日が1日、1日と過ぎていくごとに、彼女の不安が膨らんでいることにこのときようやく気付いた。でももう遅かった。
「じゃあさ、きちんと確認しようよ」
「嫌」
「なんで? 確認しないことには何もわからないじゃない」
「どうして? 本当にそうだったとしたらあなたはどうするの?」
僕は言葉に詰まった。
彼女はまだ働き出して1年かそこらしか経っていないし、まだ結婚や子供を産むとかそういったことを考えていない。彼女は仕事が好きだった。毎日仕事が終われば、資格のための勉強をし、そんな日々に充実感を覚えているのも知っていた。だから授かる命を心から歓迎できないのはわかる。
自分の経済状態も決して安定していない。そうならないようにと考えていた僕にとって、今から考えるには荷が重い話だった。だからってそのことを放置するわけにもいかなかった。
「わからない。けど事実確認しなきゃ何をどうしたらいいかわからないでしょ?」
「いいよね、男の人はそうやって逃げられるから」
会話がかみ合わず、話が前に進まない。でも結局彼女が「そうだ」と思っていて、事実その日が来ていない以上、どれだけ反論したところで彼女の不安は解消されないし、むしろ増幅させるだけだと気づいた。
「とにかく一度会いに行くよ」
「いい。仕事忙しいでしょ?」
そんな彼女の声を僕は無視した。もう埒が明かないと思った。
新幹線で片道2時間かかる道をたどっていく。彼女の姿は1週間前にあったのにずいぶんと違って見えた。覇気もなく、生気が感じられなかった。
「病院にはいかないから」
彼女は開口一番そう言った。
「怖いのはわかるよ。でもさ、実際確認しなきゃ何もできないでしょう?」
「嫌」
会話はラインのやり取りと同じで、平行線だった。なんでだ、全然かみ合わない。辛いなんて重々承知してる。でもそんなこと言っても何も進まないじゃないか。そう僕はイライラしていた。
「お願いだから、私の、人生を、めちゃくちゃにしないで!!」
一言一言、小さな声だった。でも彼女の泣きながらいう言葉はそれでもはっきり響いた。
僕は言葉を失った。
僕に罵詈雑言を浴びせかけるのは仕方がない。それだけ彼女のことを不安にし、傷つけてきたのかもしれない。そして最初から彼女の不安に寄り添えなかったのかもしれない。
でも。待てよ。待ってよ。
僕はこのことは僕と彼女の二人の問題だと思っていた。だけど、彼女にとって僕が「当事者」ではないとは全く想像していなかった。ただの「加害者」だったなんて思わなかった。
辛いのが本当に自分だけだと思っているのか?
本当にそうだったときに僕が逃げると思っているのか?
確かに僕にはその不安を本質的に理解することは一生出来ないんだろう。事実として逃げられるといえば逃げられるのも事実だろう。彼女は不安をぶつけ、僕は解決策を求めた。彼女の気持ちに寄り添えていなかったかもしれない。
でも。それでも。混乱した頭で考えた。
思わずにいられない。そんなに信用されないほど無頓着に思われたのか? あなたにとって僕はその程度の存在だったのか? 僕の気持ちには寄り添ってくれないのか?
僕は笑った。怒っていたし、泣きたかったし、許せなかった。彼女を憎いと思った。想像を超える大きなギャップがあったときに笑ってしまうんだとそのときはじめて知った。それまではお互いに支えあっているつもりだった。
でも違ったのだ。どうやら僕は加害者として彼女の憎悪のはけ口としてサンドバッグとして殴られ続けることだけだった。
「何ボーっとしてんだよ!」
上司からの怒号が飛んだ。仕事に精彩を欠いているのはわかっている。公私混同なんていちゃいけないと重々わかってる。だけど、出口が見えないのだ。何をしたらいいのかわからないのだ。でも、話すわけにはいかないと思った。
状況は毎日ラインで届いた。毎日必ず僕への恨み言を込めていた。もうどうしたらいいのかなんて全く分からないけど、返信だけはし続けた。だけど、何もこうやって聞いているだけで、できることはない。僕は彼女との日々を呪った。
彼女にとって何もできない僕にはこうやって僕をはけ口にするしかないのか。この憂鬱な日々がいつ終わるのかわからないまま徐々に僕は疲れ疲弊し、1か月にわたりそれが続いた。
結局、本来の予定から1か月以上遅れてたけれど、来るはずだったものが来てこの話は一応解決した。
「酷いことを言ってごめんね」
後日、彼女は言った。
「不安にさせてごめん」
「でも、酷いことなんて言ってないよ」
彼女を傷つけたこともそれに対応できなかったこともわかっているのに、僕の言葉には力がなかった。
ただ思っていることを言っただけなんだろう? 君のこの一大事に当事者になることもできない「加害者」なんだろう? これからもずっと。そう思うと何もかもどうでもよくなっていた。
彼女と僕の間にできた溝を越えるには僕はもう疲れ切っていた。何もかもどうでもよかった。形だけ修復したところでそこにできた溝は彼女もわかっているんだろう。本当は言いたいことはたくさんあった。でも喧嘩をするエネルギーすら僕にはもうなかった。どちらからともなく僕と彼女は別れた。
***
僕はそれから会社を離れフリーランスのライターとして生きることにした。それから何年も経ってからのことだ。
この決断は社会人になる前は考えられないことだった。僕に一人で稼ぐ力はないと思っていたし、正直その思いはいまでもある。僕は何かをさらけ出すのが怖くて、自分を発信することが怖くて、やりたいことをやりたいというのが怖かった。
その怖さを乗り越えたわけじゃない。「面白くない」と言われたらどうしようとずっと考えるし、自分の本音を込めれば込めた分だけ、吐きそうな気持ちすらある。だけど、面白いものを書くためにはどうしても必要な工程なのもわかっている。
「いやさ、ほかの先輩とは仲良くしゃべっているけど、僕と話すときは口数が少ないから嫌われているのかなと思って」
あの彼女と付き合う前、彼女からおいしいカフェがあると言って連れ出されたときのことをふと思い出した。
「ほかの先輩たちと対応が違うのは気のせいじゃないですけど、嫌いな人を食事に誘うわけないじゃないですか」
彼女はちょっとむっとして答えた。それまで和やかだったはずの雰囲気が変わった。彼女は一瞬目をそらし、改めてこっちを向いた。
「ほかの先輩と話すときと違うのは先輩のことが好きだからです」
不意打ちだった。いや、多分それは僕が鈍かったからだけれど。どうしようか全く考えていなかった。
「えっと、今まで特に意識したことはなかったんだけど、それでもよければよろしくお願いします」
今振り返っても本当にひどい答えだ。でも誰かに好かれることなんてありえないとそのときは本気でそう思っていた。これは付き合ってから聞いたことだけど、彼女自身もひどいと思ったらしい。
「空気を読めていないとは思うよ。でもだからなんでも正直に思ったことを言ってくれる。口下手だけど、諦めずに寄り添ってくれる。そんなところも含めて好きになったから」
そうじゃないんだよなと僕は思った。多分素直に思ったことを言うようになったのは彼女の影響だ。でもそんな彼女の言葉は僕の胸に刺さった。そうやって言葉を素直に送ってくれるのは彼女が初めてだった。そしてそういう彼女が好きになるのに時間はかからなかった。
告白のときまで異性として意識してはいなかったけれど、僕は彼女のことをずっと意識していたのだ。僕は怖がりだ。誰も傷つけたくないし、本音で話して誰かを傷つけるのが嫌いだ。誰かに傷つけられるのも嫌いだった。出会ったときの彼女と同じように。社会に出てから自分のやりたいことをしようとするのは上司との衝突を避けられなかった。それは僕にとってしんどいことだったし、そこまでして生きていかなくてもいいと最初は思っていた。
真っ直ぐな思いを僕に初めてぶつけてくれたのが彼女だった。恥ずかしい気持ちでも素直にぶつけることが大事だと気づかせてくれたのは彼女がいたからだった。彼女が素直に気持ちを吐き出していくところをメンターとして見てからだった。
事なかれ主義で流そうとする僕をだめだと気づかせてくれたのも、わからないときはとことん喧嘩するのを教えてくれたのも彼女だった。本当に肝心なとき、逃げちゃダメなときがあることを教えてくれたのも彼女だった。
やると決めたことに対して真っ直ぐ向かうことを最初に実践してのけたのは彼女だった。どれだけ上司に怒られようが、彼女は自分の気持ちをはっきりさせたらどうしたらいいかいつも考えて実行していた。そうやって今は新規プロジェクトの立ち上げを担っているらしいと前の会社の同僚から聞いた。彼女を教えているようで彼女に一番教えられていたのは僕だったんだ。
どれだけ忌まわしい記憶にふたをして忘れたいと思っても、そのことも忘れることができなかった。彼女の存在を否定することはその全てを否定することだった。
今だから思う。彼女は僕を多分許してはいない。なぜなら僕も彼女のことを許していないから。ただ今思うのは僕が思った以上に似た者同士だったということ。結局僕も本音をごまかすこともできず、やりたいことをやりたいようにしていくことしかできなかったんだから。大事なものが少し違っただけのことだと今は思う。
信じるのは怖い。信じて、傷つけられた時の痛みは本当にもう二度と経験したくないと心から思ってる。だけど、その痛みはかつての信じてもらえていたときの気持ちは表裏一体なのだ。
この痛みも喜びも今僕がやりたいことをやっている証だ。そして、それは彼女から教わったものが僕の中に生きている証でもあった。
※この話はフィクションです。
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